共同体・労働・個

　『少年』の鳴海靖は、一種異様な感じがするほどに孤独な少年だった。稲木房太郎によって秘密を背負いこまされ、共犯者の意識を抱くようになってからは、いっそう孤独な少年になってゆく。だが、それ以前においても孤独な少年であったからこそ、別な意味で孤独だった房太郎としか近づきになれなかったのだ、と考えるのが妥当であろう。仲間はずれ同志が時に反撥し憎み合いながら、しかしけっして離れることができない、という意味で、すでに二人は共犯者なのであった。

　学芸会で「青い鳥」の児童劇が行われたということがフィクションであるように、おそらく稲木房太郎も西川京子も田崎先生もまた虚構上の人物だった。けれども伊藤整が、房太郎のように弱虫で、生気に乏しいくせに、ある種の知恵にだけは長（た）けている少年や、町側に生活の根を持っている西川京子に惹かれる、そういう孤独な少年だったことだけは疑うことはできない。それは伊藤整が、村を開いた漁師の家系の子供仲間にも、後から入植した農家の子供の仲間にも入れない、軍人あがりの収入役の子供だったからだ、と一応考えることができる。

　初出は不明ながら「得能五郎」ものの時期に書かれた作品に、『仏の耳』という短編の小説がある。この作品の中にも、主人公の少年にとって気やすく一緒にいることのできる、羊一という子供が登場するが、羊一は頭が悪くて身体の虚弱な、そのくせ「手ぐさ」という遊戯だけは得意だった。あるとき、海を見ていた羊一が確信を持って天候の急変を予言する。かねがね相手を軽んじていた主人公は、こと海に関するかぎり、羊一が大人の漁師の判断を身につけているのを知って、気圧されるような感じを味わう。
　そういう場面が描かれていたが、おそらく伊藤整は、労働する両親の手助けをすることで、生活に根ざした判断力を身につけたり、漁師の共同生活を営む親同士のつながりを介して、子供達の共同意識を育てたり、そういう経験に乏しかったのだろう。――『雪明りの路』の風物のイメージは、生活判断と結びついた眼を持つ人間によってとらえられたイメージではない。――教室での優等生は、遊びや行動においては全くの無力者、仲間はずれだったのである。

　しかし伊藤整の孤独はおそらく、漁村生活の中で特殊な位置にあった父親の地位によるものだけではなかった。

業の時空間

　『少年』の稲木房太郎の父親は、つづけて子供に死なれたため、生きものの命を絶つ漁師生活を反省して、稲木商店を始めた。また小学校の小使は、牛や犬の屠殺を業としていたが、あるとき白い犬が、人間が坐って拝むような恰好で前足を合わせるのを見て、ふっつりと殺生をやめたという（注2）。『少年』の鳴海靖は、そういう前歴を持った人間を、畏怖するような眼で見、暗い生存の世界を感受する。それも又漁村に特徴的な、生き物を追い、命を奪うことを生業とする罪業感や、天候の急変によっていつ訪れるかもしれない死の怖れと結びつけて理解することができよう。
　生あるものを獲り、生命の危険に身を晒しているが故に生れてくる、漁師の迷信深さや、生死観。それが『幽鬼の村』の巫女（いたこ）おろしや、人間の罪障を訴える和讃、得能和尚の説教にあらわれている。そして、そういう風土の中で育ちながら、直接には肉親の不慮の死を体験していないだけに、いっそう伊藤整の内に怖れと神秘感とが育っていた、と言うこともできるだろう。一言で言えば、生命の孤独ということである。

　『少年』の主人公が「青い鳥」の話を聞いて、「森の場面」よりも「未来の国」の生命誕生の話の方に惹かれ、しかも「何か怖しい話」と感ずる。これも、そうした生死観が少年の内にあればこそであろう。『仙吉』の場合もそうであるが、伊藤整には意外なほど「業」や「宿命」の観念が強いのである。

　ともあれ、常に不慮の死が待ちかまえ、死者の霊や、殺生されたものの祟りが半ば信じられている世界が、ここにある。それを身近に見聞きして育った人間にとって、死や過去はけっして完了したものではなく、抗いがたい力を現在に及ぼすものとして受け取られる。伊藤整の恋愛詩の風物は、風物そのものとして見つめられたところのイメージではない。かれの眼は風物を見て、しかしそこに甦ってくる恋人のイメージをみていた。
　この発想は散文においては、『生物祭』をはじめとして、『仙吉』を経て、現在に至るまで貫かれている。かれにとって過去は、必ず甦ってきて現在に働きかけ、現在を根底からゆさぶり、脅かし、復讐するものなのであって、既に終わったはずの過去が、思いがけない深淵となって主人公を呼びこんでゆく。その怖れを描くとき、かれの文学は、最も強烈なリアリティを発揮するのである。

家族と孤児の感情

　しかし伊藤整の孤独は、それだけでもない。かれは家庭においても孤独だったのではなかったか。

　風が激しく吹きつのる夕方は
　子供がむずかつて泣く。
　母は邪剣にそれを叱りとばす。
　裏の林を風が落ちつきなく吹きすぎ
　木や草はざわざわと葉をかへしてゆれる。
　こんな時には
　子供の心に
　頼りない涙が込み上げてくるのだ。
　子供はいつまでもすゝり上げてゐる。
　母はそれを叱りつけて
　急がしく夕餉の仕度をする。　（「風」）

　伊藤整の母親が「邪剣」な母親だったと考えるほど、私は素朴な読者ではない。この一行に関して言えば、これはむしろ作者がひんぱんに目撃した漁村の、気性が荒く、夫と共に働き、しかも食事の仕度までしなければならぬ母親のイメージを取り込んだもの、と見るべきであろう。
　しかし『雪明りの路』には、なぜあんなにもくり返し、頼りない気持で涙ぐみ、しくしく泣く子供や、夜中に一人目を覚まして怯えたり淋しがったりする少年のイメージがあらわれてくるのか。
　それだけでなく、病気の癒えかかった父と、「私も昔のやうに黙つてゐないで／様々な話を聞いてもらつた」（「父」）ことが、かつて経験したことのない出来事として詠まれている意味を、考えてみる必要もあるだろう。

　『少年』の鳴海靖は、自分で背負いきれない秘密や不安を、家庭で訴えることをしない。少年は、母親と近所の人との噂話を耳にし、大人の世界を怖しいもののように、何か得体の知れぬものが隠されているように感ずる。『雪明りの路』にもまた、社会や大人の世界への反撥や怖れ、世間に馴れることのできない自分を表出した詩篇がかなり多く詠みこまれていた。

　子供が大人の世界や生活を身近なものと感じうるためには、繁漁期や農繁期に両親の労働を手助けするか、あるいは又、話しうる範囲できちんとことわけて説明してくれる年上の存在、とりわけ両親が必要だろう。その点から言えば、伊藤整の父親は寡黙な人物、母親は世間の噂話から子供の耳を遠ざけておくことを躾と考える人柄だったらしい。
　そういう場合、子供は、耳にした断片を基に一つの幻像を組み立て、すでに大人の世界や行為を、その裏まで見抜いているかのように振舞う同年輩の子供に対して無力感を覚え、おのれの幼稚さに劣等感を抱き、自分の思念をあたかも秘密の核のように、内へ内へと隠し込んでゆくことになる。

　そこで一つ加えておくならば、「裏の林を風が落ちつきなく吹きすぎ／木や草はざわざわと葉をかへしてゆれる。／こんな時には／子供の心に／頼りのない涙がこみ上げてくるのだ」という詩句は、伊藤整の作品の重要な一つのモチーフを示していると言える。
　ふつう『雪明りの路』の風物については、恋愛の情感と結びついた、明るい北国の春や、夏の草木、ほの明るい雪明りの静かな世界に、眼が向けられてきた。
　しかし恋愛詩を除く詩篇の中では、ほとんど常に風が吹き、木の葉がざわめき、霙が屋根をたたき、吹雪が吹きすさび、海が波立っている。とりわけ風は、常に作者の心を不安や頼りない感情に誘いこみ、『少年』の言葉を借りて言えば、「私はポプラの並木が風に揺れては空に向って手をふりまわすようにしながらまた起きかえるのを見ていた。そういうとき、私は自分が父も母もない孤児のような気持ちになる」。そしてこの風が次第に冷くなり、霰を散らし、雪をはこんで来、それに照応して少年の孤独は深まってゆく。

　風と不安というモチーフ、それは小説においては『イカルス失墜』をはじめ、かなり数多くの作品に指摘できる。それだけでなく、かれの詩及び小説には、「一人ぼっち」、捨児、孤児、育ちと経歴に対する引け目の意識、暗い情念を抱いた孤独な上昇志向者などが、くり返し主題に選ばれているのである。